«前 || 1 | 2 | 3 |...| 20 | 21 | 22 || 次»

06月 21日 2018

私の夢まで、会いに来てくれた - 金菱清(ゼミナール)編

 出版直前から、ずっと気になっていた本だった。構成を担当された角田奈穗子氏とはかねてより多少のご縁があり、Facebook等で本書の出版について何度も案内を拝見していたが、なかなか書店で現物に巡り会うことがないままに日々が過ぎてしまった。震災関係の書籍をまとめて書店取り寄せの決意をするまで3か月以上かかったが、偶然にまかせず取り寄せしてでも、読んでよかったと思う。



 本書は、前回このブログで掲載した「霊性の震災学」と同様に、東北学院大学で金菱清氏が率いる「震災の記録プロジェクト」として、2017年前半に学生らが被災者の方々にお話を伺った「夢」の記録を紹介し、まとめたものである。金菱氏は存じ上げないが、学生らにこの難しいテーマ(話の切り出し方を間違えたら学生が先方から怒られてしまいかねない「夢」の話)を与えて送り出し、そしてこれだけのものを引き出してこさせることから考えて、おそらく学生らとの信頼関係が、かなり強く確立されているのだろう。ひとつ間違えれば無謀な策であり、鬼教官と呼ばれかねない。

 先にあとがきについて書いてしまうが、金菱氏は阪神淡路大震災を大学入学直前に経験し、そして教員としては東北学院大学で東日本大震災を経験しているそうだ。大手のメディアに出にくい、現地の方々の体験や思いについて、感性の大きなアンテナをお持ちなのだろう。

 本書から、あふれるように飛び出してくる夢の話を、ここでひとつひとつのご紹介はしない。あのときああしていれば違ったかもしれない、自分があのとき引きとめていたら。もし、あのとき——そんな話者の叫びが、できるだけ簡素を心がけたのであろう、おさえられた文章の行間から、ともすれば紙を突き破って出てきそうな勢いで聞こえてくる。文字になった言葉の裏に、間違いなく何倍もの思いがある。

 聞き手と話者の相性もあるかもしれないが、全員が語りたくてたまらなかった人ばかりではなく、調査に来た学生さんに丁寧に接してくれたという印象をもった話もあった。逆に、この人(話者)の話をこんなにきれいに、短くまとめてしまっていいのか、この人は本一冊になるくらいにすごい思いをいだいているのに——と感じさせられる話も、かなりあった。割合としては後者のほうが多く感じられた。

 これからも、震災の記録プロジェクトは、つづけていかれるのだろうと思う。一度に全員の思いをまとめることはできないが、テーマが異なる別の切り口を見つけてインタビューを継続していくことで、新たな人が自分の思いを口にすることができるのだろう。そしてそのときの「口にする」、「表現する」ことが、その人たちにとって癒やしであり救いとなるのだろうと、信じている。

 今後も、震災の記録プロジェクトを、応援していきたい。

 さて、こういう内容を書くことは本来の書評には不要ではあるが、世の中で「お約束」のようになってしまっているため、わたしも東日本大震災のことを書いておく。
 わたしは北関東育ちだが、義父母は岩手県沿岸で生まれ育った。震災のころには生活の大半を盛岡に移していたが、家は沿岸にも残していた。その日にどちらの家にいたかで運は大きく分かれたはずだ。盛岡にいたことがわかったのは翌日だった。だが連日のテレビ映像で自分たちの故郷が津波に呑まれるのを見て、ただでさえ認知症気味だった老夫婦は完全に心を閉ざし、義父はその数ヶ月後に突然死した。ある意味で、震災の影響があったのではないかと、わたしは思っている。

コメントをどうぞ

mikimarulogも、よろしくお願いします。

05月 26日 2018

呼び覚まされる 霊性の震災学 - 東北学院大学 震災の記録プロジェクト 金菱清(ゼミナール)編

 出版当時から気になっていた本を、ようやく読むことができた。
 気になったきっかけは、当時この本に「幽霊」の項目があることが、大きな話題になったためだ。外国の新聞記事にもひときわ大きく幽霊の話が紹介されていたのを覚えている。そして英語で紹介された記事のコメント欄には(それらコメントも英語だが)、きゃーという軽いものやら、読み手のお国柄によっては真剣に興味をいだくものやら、さまざまな反応があった。

 それは日本の紹介記事でも似たり寄ったりだったと思う。わたし個人は幽霊話も嫌いではないが、それよりも民俗学的な面から大きな関心をいだいた。幽霊話は一部であるにせよ全体を構成する大きな柱は、現地の学生らによるフィールドワークだという。この21世紀の現代でさえ、人に語るには繊細すぎるはずの内容(しかも内容はそのつい数年前に発生した大きな出来事にまつわる)が、第三者より採話可能であったことに、驚きを隠せなかった。

 いつか読みたいと思っていたが、今年ちょっとしたきっかけがあり、この本のほかにも、東日本大震災のその後をつづる本を二冊購入した。まずいちばんに読んだのが、本書だった。



 各章をそれぞれの人物が担当している。

 冒頭でまず、編者でもあり第五章を担当する金菱清氏(東北学院大学教授)の指摘が胸に突きささる。日本のメディアは震災のご遺体などを、画面や紙面で見せないという点だ。理由はさまざまにあろうが、その結果として、その地にあった"生"が"死"になったことを見る側や周囲が直視できなくなる。最終的には何人がなくなった、そんなことがあった、いまは現地はこうなっているといった言葉や数字で、表面的なさらりとした記憶を人に植え付けてしまう。

 本書の貴重さは、数字の大きさやセンセーショナルかどうかではなく、現地に当時も取材時も暮らしていた、普通の人々から言葉を掘り起こし、記録している点にある。
 また、遺体や埋葬のご苦労がなかなか外部に伝えられることのない状況で、第六章「672ご遺体の掘り起こし」のような話は、被災地の表面的なご苦労にしか思い至らなかった人間として、我が身を恥じるほどの衝撃があった。ご遺体の身元がわかるまでは保存しておきたくてもドライアイスがない。道路事情や焼却炉の事情で火葬もなかなかできない。だが腐敗は進む。そこで宮城県では仮の場所にご遺体を埋葬して、2年以内を目安に掘り起こして火葬するという方針を打ち出したそうだ。だが墓地でもないところに仮に埋葬された人々は、あまりにも気の毒である。地元の葬儀社がたいへんな労力で、約4か月で掘り起こしと火葬を完了させたとのこと。
 この章だけでも、目が覚める思いがした。自分には、知らないことがまだまだ多すぎると気づいた。

 東北のこの震災にかぎらず、大きな災いのあとには、忘れたい人、忘れたくない人、忘れてはいけないと思う人、死を語ることが難しいならばそこに大勢の生きていた人がいることだけでも伝えたいと思う人々など、さまざまに多くが存在する。思い出としての碑を願う人、祈るための碑を求める人、埋葬する遺骨は流されていたとしても新たなスタートとして墓地の移転を考える人々。それぞれの形がある。本書ではさまざまな視点から各人が取材をし、現地の人々の思いを、さらに多くの人間たちの記憶に残すため、文字という形にしてわかりやすく刻んだ。

 第五章「共感の反作用」は、この中でもとくに、すすめたい。悲しみは、亡くした家族の人数ではない。実際に被災地で避難所にいたかどうかの経験でもない。都会に暮らし、現地の家族の多くが亡くなった人がいる。日々を生きるのがやっとなほど打ちのめされ、何年も立ち直れずにいたという。人それぞれに、目に見えるとはかぎらない苦しみをいだいている。
 つい人は、あなたは揺れを経験していない、津波を近くで見ていない、家族も亡くなっていないという目で、被災者とそれ以外を線引きしてしまうことがあるかと思う。だが、今後は慎重でありたい。

 さて、話題の目玉となっていた第一章「死者たちが通う街」では、石巻に聞かれたタクシーに乗る幽霊の話が紹介される。タクシーに乗ろうとした(もしくは乗った)幽霊は、ほとんどが年少者か若者であったようだ。幽霊というもの全体を肯定するならば、中高年や高齢者の幽霊もまた出ないわけではないだろうが、何かの存在を感じて幽霊だろうかと考えたとき、若者ならばさぞ思い残すことがあっただろうという受け手側の思いにより、若年層を話題にさせやすくするのかもしれない。

 話を聞き、内容をまとめたのが現地で学ぶ学たち(しかもほとんどが震災当時に現地で高校生だった方々)であることから、地元の方々も口を開いてくださったのだろう。これほど繊細な問題で個々人から話を聞け、そして実際の掲載まで話が進むのは、なかなか可能なことではない。
 ひとりでも多くの人の目に、この本がたどり着けるように祈っている。

コメントをどうぞ


03月 21日 2018

ニッポンの肉食 - 田中康宏

 マタギや狩猟、野生動物の食肉への加工の話題にはずっと関心があり、これまで何冊か読んできたが、どれも感慨深いものだった。本書を読み終えたあとになって、著者紹介の欄を見てようやく「女猟師」の著者であったことに気づいた。あれも感慨深い作品だった。わたしがこうした本を好むようになったきっかけの一冊だったように記憶している。もう一冊は内澤旬子著「世界屠畜紀行」だ。



 第一章では、日本人の食べてきた肉について。
 日本人は古来から肉を食べていた。よく言われるような、かつての日本は仏教の教えで肉を食べなかったというわけではなく(なぜなら仏教は殺生を全般的に禁じているのであって、牛や馬など四つ足を食べてはいけないが魚や鶏はよろしいと言っているわけではない)、その時々の人々により食べ物と見なされた生き物は、食べられていた。たとえば明治以前に多くの人にとって牛や馬を食べる習慣がなかったのは、それらが使役動物として有用であったためだ。生きているうちは農耕や運搬をさせ、死ねば弔ったからであり、食べ物ではなかった。著者のこうした説明には、大きくうなずかされる。

 第二章では、牛肉の種類や概要、銘柄和牛と国産牛はどう違うのか、効率よく肥育化させようとする過程で世界的な社会問題となってしまった狂牛病などについて、牛に多くの言葉を費やしつつも、それ以外の畜産肉(豚、鶏、羊、山羊、馬など)についても紹介。
 そして日本における狩猟の概要と必要な届け出の説明、狩猟で得られる肉にどのようなものがあるか。そして美味なのか、臭くて食べられないのか、一部の条件下においてならば食べられるのか——マタギによってまったく意見の違う「狸の肉」を実際に食べてみた、その感想とは。

 第三章では、食肉加工処理についてを解説。実際に現代の人間が食べている食肉の加工処理施設は見学も可能なことが多いが、著者は古くからある肉屋での作業について、そして狩猟の現場で獲物を仕留めた直後におこなわなければならない血抜きと内臓除去についても、実際に現地で取材したまま、丁寧につづる。

 かつてアニメーションなどでよく話題になった原始人肉(骨のまわりに肉がついていて、かぶりついて食べる)は実際に作るとしたらどう調理するのか、そもそも部位としては動物のどこなのかなど、文章のいたるところに著者の肉への情熱があふれている。

 なお、わたしはP.82以降のクマの欄で1915年に実際に北海道で起こった三毛別(さんげべつ)事件が気になり、ネットで調べてみた。死亡しただけで7人。怪我を含めればかなりの人数が被害にあった人食いヒグマ事件である。冬眠しそこねた巨大な羆が人肉の味を覚え、最初は偶発的な襲撃だったがそのうち狂気に満ちて昼間でも人家にやってきたという恐ろしい事件だ。本も何冊か出ているようなので、ぜひもう少し調べてみたい。

 同著者の本で「山怪」というのも人気だそうだ。
 わたし自身が山育ちのせいか、不思議と山の話にひかれる。

コメントをどうぞ

03月 18日 2018

東京23話 - 山内マリコ

Author: mikimarche Category: 5. エッセイ

 東京が好きである。だがずっと住んでいても知らない場所や気づかない情報が山ほどある。人の目と脳は、出発地と目的地のあいだをただの風景として認識してしまうことが多いのだろう。だがそこには人がいて、生活がある。何かに気づくことができたら、そこから楽しみが無限にひろがる。



 東京は広い。そして人が多い。たとえ近隣の区であっても日々新しい発見がある。すぐ近所の道だというのに、数年のあいだ横目で美容室か洋品店だと思っていた店が、実はパン屋だったと気づいて自分に苦笑したのは半年前だった。そして、閉じてしまった店の跡地が更地になっているのを見て、何屋があったか思い出せないのは日常茶飯事だ。

 この本を読もうと決め、まず目次を開いた。23区と、特別参加の武蔵野市(言わずと知れた吉祥寺がある市)が、それぞれ擬人化されてひとり語りで生い立ちを語る構成だ。

 文京区は文豪の街として「吾輩は文京区」と語り、江戸時代には陸地のほうが少なかったが現在ではウォーターフロントを自認する江東区は、都市博が中止になったことで青島元知事に恨み節があるようだ。大田区と言えば羽田。アメリカの占領軍に48時間以内に出てってくれと追い出された住民と、有名な大鳥居の逸話。石井桃子氏がくまのプーさんを翻訳するきっかけになった杉並区の旧犬養毅宅にゆかりの「かつら文庫」は、現在も児童図書館として土曜日の午後に開館している。
 旧古河庭園などを設計したジョサイア・コンドル。実は荒川が流れていない荒川区。かつてはたくさんの人々が住んでいた、高島平の団地で知られる板橋区。中野区と言えばブロードウェイ、などなど。

 どれも楽しく、わくわく読んだが、唯一の例外は23区の最後にあった江戸川区だ。日本インド化計画ということで、漢字以外の部分をカタカナで書いていた。読みづらいし、読みたくなかった。外国人のたどたどしいしゃべりをカタカナで表現するというのは、いまどきどうなのか。

 23区はさすがに広すぎるので、杉並、中野、練馬など3区ずつを単位にした本でもあったら、読み応えがあるのではないかと思う。まるで選挙区のようだが、東京のことだから、3区ずつくらいであっても、分量としては1冊の本にうまくまとまるだろう。

コメントをどうぞ

02月 08日 2018

発達障害 - 岩波明 著

 以前に読んだ中野信子著「サイコパス」も文春新書だったが、本書「発達障害」などのタイトルは、店頭で見かけるとどうも通過できない。手に取るううちに、そのまますっとレジに向かってしまう。もしや、わたしも本書内で言われるような「自分も発達障害かもしれない症候群」(自分の「空気の読めない」ところに病名などの原因を求めたがる人々)のひとりなのかもしれないと、苦笑してしまう。
 著者は医学博士であり、専門は精神医学である。いわゆる学者(教える立場)という立場からのみならず、臨床研究の現場に根ざした観察眼で、一般人にもわかりやすい言葉を使って発達障害を語っているのが本書だ。



 まずは章を分けてASD(自閉症スペクトラム障害)、ADHD(注意欠如多動性障害)、両者の共通点と相違点を説き、さらに映像記憶、共感覚、学習障害や、いわゆる「天才」の解説へとつづく。後半から終盤に近づくにつれ、社会を騒がせた近年の未成年犯罪とそれを語る際に安易に用いられた「アスペルガー症候群」という言葉、さらに発達障害と犯罪の事例、発達障害を社会受け入れていくため現状で実践されているケア紹介、発達障害とどう向き合っていくかの今後の方向性をつづっていく。

 とても読みやすい構成だ。急いで読むと、ところどころ障害の名前(略語)などで頭が混乱しそうになるが、かたい話のあいまには近代のよく知られた有名人の生い立ちや人物像(現在もし生きていたら障害に分類されていたのでは)といった、やや軽い文章がつづられ、メリハリが利いている。

 P.116からの「シネステジア」(共感覚)の章を、とても面白く読んだ。外部からの刺激に対して通常の感覚だけでなく、異なる種類の感覚も同時に生じる現象」という定義がなされているそうだが、本書によれば「文字に色を感じる」、「音に色を感じる」、「形に味を感じる」といった、子供のころに多少は経験した人もいるのではないかと思われるような現象だ。少なくともわたしは理解ができる。
 子供時代ならともかく、大人になってからこれを語ってはおかしい人と思われてはいけないからと、口に出さずにいる人もいるのかもしれないと、そんなことに思いをはせた。


 

コメントをどうぞ

11月 17日 2017

ジョブズの料理人 - 日経BP社出版局(編集) (著) / ‎ 佐久間俊雄(取材協力)

Author: mikimarche Category: 5. エッセイ

 序文と前半のごく一部を読んだまま、忘れて積んでいた。何年くらい経ったのか、昨日ちょっとした積み替え作業のとき上のほうに出てきたのでパラパラとめくるうち、半日で読み終えてしまった。題材も興味深く、内容もまたつまらない本ではないのだが、なぜこんなに時間がかかったのか。

 おそらく、インタビューに基づいた記事をご本人の語りかけ口調で再構成した文体が、わたしの好みに合わなかったのだろう。その構成は冒頭で断り書きがなされていたが、どうしてもところどころで、ご本人と錯覚しそうになっては踏みとどまることがあった。



 アップル創業者のスティーブ・ジョブズが懇意にしていたすし職人、佐久間氏へのインタビュー記事である。奇しくも氏にとって大きな節目であるはずだった2011年春に日本で東日本大震災が起こり、おそらくはそういった状況の変化が遠因になったのだろうが、氏が予定していた新たな計画が実現を目前にしながら終了してしまった。そのころ、病と闘っていたスティーブ・ジョブズが、氏を案じて温かい申し出をしてくれたという。
 その話が実現されることはなかったが、ジョブズが亡くなってほんの二日後に、彼が足繁く通った佐久間氏の店もまた、閉店の日を迎えた。

 インタビューはその後まもなく、絶妙なタイミングでおこなわれたものだった。発表されて反響を呼んだのち、細部を掘り起こして書籍化となったようである。

 シリコンバレーの黎明期にスタンフォード大に近い場所で店を開いた佐久間氏の店は、インターネット関連企業のバブルに乗って安定した客足を得ることができたが、有名人だからと特別扱いすることもなく客は客として接した氏の人柄がかえって功を奏したか、IT企業ほかさまざまな分野での人脈にも恵まれた。円高で日本からの仕入れに苦労し、質のよくないものを無理に使って通常の味が出せないならばとメニューを工夫や削減しながらも、実直に店を守りつづけた。

 ジョブズの人物像やIT産業の話として、ファンも面白く読めるかと思うが、日本の食文化の海外進出の話として読んでも、楽しめると感じた。

コメントをどうぞ

07月 13日 2017

まるまるの毬(いが) - 西條奈加

 将軍家に仕えた旗本の家を自らの意志で出て町人となり、若くして諸国を修行した菓子職人の治兵衛。苦楽をともにした妻は旅の途上で病に倒れたが、残された娘とともに江戸へもどり、諸国の菓子を庶民にも手の届く価格で提供する「南星屋」をはじめた。



 菓子作りから店のこと、そして諸国の菓子の資料までそらんじているしっかり者の娘と、客さばきに長けた孫娘の三人で切り盛りする店をそっと見守るのは、治兵衛と同じく旗本の家を出て身分の高い僧となった弟の五郎。

 珍しすぎる菓子を商ったばかりに九州の大名から門外不出の菓子製法を盗んだと疑われた「カスドース」の回にはじまり、娘のお栄とかつての亭主との再会、孫娘お君の恋心を描きながら、治兵衛と五郎の実家である旗本家の現状やさまざまな人間模様が描かれる。

 心をこめた菓子の描写でなごんだ気分になりながらも、世によくある人のねたみや、ちょっとした思惑のために、治兵衛ら登場人物の幸せにひびがはいる。大切にしていたものが崩れて、何人もが涙を流したとき、やがて雪解けのように明るい日の光が見えて、話が終わる。

 店の主である治兵衛の境遇がやや特殊すぎないだろうかという思いもあったが、そもそもそれがなければ成り立たない話であり、仕方のないことだったかもしれない。

 まったく存じ上げない作家さんであり、先月の急な土砂降りで雨宿りのためはいった書店で見かけたというだけの文庫本ではあったが、よいものを読ませてもらった。こんな巡り合わせに、感謝している。

コメントをどうぞ

«前 || 1 | 2 | 3 |...| 20 | 21 | 22 || 次»